Maybe Tomorrow

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高校のとき、県民会館にレベッカが来るよ!と

同級生のみっちゃんが誘ってくれた。

記憶はあやふやだけど、たぶん行くまではレベッカをそこまで好きじゃなかった。

でもステージを駆け回って歌うノッコのエネルギーに鳥肌が立って、自分がずっと探してたのはこれだと思った。

エネルギーが人に伝わる感覚。

魂にふれてくるパワー。

 「ノッコのように歌うのだ」

それから毎日、心の中に音楽が鳴って勉強も手につかず

歌、歌、歌

歌のことばかり考えていた。

 

目立ちたいとか、アイドル的存在になってチヤホヤされたい動機ではなく、とにかくあの姿になることしか考えてなかった。

修学旅行、文化祭、出られる場所ではいつも歌っていた。

偶然、歌もうまかったので(謙遜はしないで書くけど)、文化祭で音響に来ていたスタッフという会社の人に声かけられ、大人の人や、秋大の人とバンドしたりするうちに、コンテストにも出るようになった。

高校の音楽の先生が大学時代のレコード会社の友人に紹介すると言ってくれ、友人のギタリスト・寺内タケシさんに歌手の道を頼んでやるぞ、と。

 

ただでさえ、バンドの人たちからの電話連絡を断ち切る両親。

説得する勇気もなくて、応援してもらえる気もしなくて、見えない未来にワクワクするどころか、突然怖くなった。

どういうわけか、バスガイドになって歌う道を選びますと断った。

わたしのために進学費用は捻出できない、弟が跡取りだからって口を酸っぱくして話していた親に、就職して歌うならOKもらえるだろうと踏んだ。

それでも親は難色を示し、さらにはその試験も校内選抜で落ちた。

不思議なことにホッとした。

たぶん、向いてないのを自分でよくわかっていた。

人を楽しませるために歌うとこまでいけてる自分じゃなくて、根本からなにか違っていたから。何か欠けてる自分を埋めてくれるのが歌だったから。

 

のんびり、デザインの勉強をしながらバンド活動でいいかなって軽い気持ちで選択を変えた。ほんとうに軽い気持ちで。

魂の願いを意識で簡単に塗りつぶすことができると思った。

 

デザインの専門学校は、バイト代でも払える金額で、修学旅行の費用を親に出してもらって、そっちのほうが高かったくらいだ。

でもいざ、学校に入ってバンドを続けようとしたら、大学生や社会人の人たちとのつながりが切れて音楽活動は尻切れトンボに。

次第にデザインのほうに傾いていく。

 

たいして才能もないのに、当時秋田で勢いのあったデザイン会社の面接を受ける。

その社長に作品を見た瞬間言われる。

うーん。ちょっとスケッチブック見せて。

作品とラフスケッチを見比べて言う。

君は何か自分に対して勘違いをしているね。

ラフのほうが現場では使えるものばかり。

作品は全然だめだ。

その辺の絡まりをほどいてから、この仕事にむかってください。

 

目の前真っ暗になって疑問だらけになってとぼとぼ帰る。

すぐに学校の先生から勧められた別の会社を受けることになった。

面接をしてくれた専務は、スケッチブックを見なかった。作品も。

笑顔だけで合格になった。

大きな会社が後ろについているデザイン会社で親は大喜びした。

それでいいかなって思った。

 

笑顔だけで受かった会社でわたしは、なんもしないで

お茶を汲んで、毎晩先輩上司たちと飲みに歩き、

時々、得意先や代理店の人とチークダンスを踊っていた。

ケツ触られたりもした。そんなもんだと思ってた。

 

デザインもやめて医療営業の仕事につき、お金のためだけに4年働いた。

決まった時間に決まった場所にいき、決まったことをして余計なことを言わずに帰る。

帰る道を照らす月を見て、自分は何をしているんだろうって何度も泣いた。

温泉に泊まりに行ったある日、地方営業の歌手のステージが終わったあと、お客さんで歌いたい人いますか?と司会の人がいったので手をあげて一曲歌わせてもらった。

すると「ちょっとこの歌も歌ってみて」「これも歌ってみて」とオーディションのようになり、もしその気があったら、この名刺に連絡をしなさいと言われた。

ちょっと整形はしないといけないけど…会社に話を通すから、と。

また、嬉しい反面怖くなって母に話すと、包丁を持ち出し、「歌手にするぐらいなら、あんたを殺して私も死ぬ」といった。

 

とりあえず苦手な営業職をやめることにした。デザインに戻ることでお茶を濁した。

テレビで吉田美和をよく見かけるようになった。

楽しそうに、心から楽しそうに歌っている姿を見て見てるだけで生き返る思いがした。

 

友達も仕事で悩んでいた。

二人で月に一度は歌いに行くようになった。

その瞬間だけ自分を取り戻す気がした。

でも、彼女が死んでしまった。

 

絵を描くことが大好きだった彼女が絵を描くのをやめて、日常に適応することを選んで数年後だった。わたしも似たようなもので。それでも時々、ふたりで思い切り歌を歌えばなんとか幸せに過ごせた。

 

死に突然向き合うことになってどうしたらいいのか何もわからなくなって、その恐怖を埋めるように、デザインの仕事に没頭しはじめた。

何日も寝ないで仕事した、休みもなく働いた。

仕事してると泣かないで済んだから。考えないで済んだから。

そんな日々を数年続けてある日、家から一歩も出られなくなった。

 

もう頭も心も狂いそうに苦しくて、言葉をブログに書き始めて押しとどめていた表現するという行為に没頭した。

するとそれを目にした映画監督とであう。

 

そのひとは私が、ないことにしようとしていた欠けの側のひとだった。

不思議な人が周りに沢山いた。

その人と関わった短い時間、自分は自分をマイノリティだと思っていたのに

実はマジョリティ側で、少し外れてるだけだと知った。

自分が思ってるより、ささいなことをただ恐れているだけの。

 それまでの人生で会うはずのない人を沢山知った。

コミュニティビジネスで億を稼いでいる人、ヒッピーみたいに暮らしていながら、月200万不労所得がある人、悪名高い宗教に心酔していた人。

ずっこけるほど想定外の人生を歩んでるひとたち。

おっきく欠けながら…おっきく輝いてる人もいた。

漫画に命をかけた人生、映画の配給に人生をかける人、絶命したゲイの作家の人生、その妻…ゲイの人たちの団体生活…

みんなそのままの自分を受け入れて当たり前のように存在してた。

わたしのほうが変わり者のように思えた。

 

どういうわけか、

ラフスケッチの線は生きてるのに、作品はクソだと言われた過去の出来事が何度も思い出されて…

それでも何を問われているのか、どうしてもわからないまま。

「みんなが丸く収まる」

それが自分の安心。

そういう選択をまたしていく。

 

そして今に至るのだけど。

 

欠けを、ないことにして普通に徹した時代。

欠けのほう側で歩かされた時間、

光と闇と思っていたものを一周する羽目になって

全て解決したのかって思っていたら、

次のらせんにまた突入して

 

欠けている自分が発するものが人の役に立ち始め

今度は、人から愛され

嬉しくって嬉しくって

欠けが埋まったように思えるけれど

やり過ぎて疲れ果てて、ふと自分を振り返ると

ぽっかり空いた大きな穴

 

それだけでは限界があることを知り…

そうじゃなくて

 

なんとなく

欠けてるのは自分だけじゃないから

もっとだから、

それを大きなものに使えるように

何ができるのかって

同じことを無意識、意識的にしている人たちと

力を合わせていくことを覚えたりして…

 

それもゴールじゃなくて

きっとこれからも

何度も何度も螺旋は続いていくんだと思うけど

 

なんとなく、

一番最初に軽い気持ちで間違えてしまった選択、

そこに立ち戻りたくて…

二日前、わたしを大切にしてくれる人たちに

バックで踊ってもらいながら歌を歌ってみた

 

そしたら、大きく欠けていたころの自分が

どうしても取り戻せなくて

当たり前だけど…愛されてない、

それを埋めるための歌はもう歌えなくて。

ボイトレもしてないの、まあまあ上手、

そんぐらいの歌しか。

 

ああ、そうかって。

 

 

 

遠い昔に確かに選択を間違えた

18歳から

本当は違うのに、軽い気持ちで、

みんなが丸く収まるってことを

選ぶことのほうが多くて

 

でもそれもわたしの優しさでもあって

いい、悪いってなかったのかもしれない。

親を説得してまで、夢に向かえなかった

自分を許せなかったのが本当で

少しすり替えて、

親の応援がなかったから夢に向かえなかったと

そう思ってると楽だったのかもしれない

 

いつも本当は

自分が許せなかっただけで。

勇気のない自分が

がんばりとおせない自分が。

 

それでもやっぱり、夢って。

本当にかなえたい夢ってとっても怖いから

叶わなかったら本当につらいから

人の応援がなかったら、歩いていけない。

がんばれという声

できるよ

きっと叶うよ

大丈夫だよ

見ているよ

信じてるよ

あなたならできる

力になるよ

そばにいるよ

気持ちは一緒だよ

がんばってくれてありがとう

 

そんな自分以外の背中を押す存在が

いつでも

うなずいてくれる存在がなかったら

到底、あるけない

 

だから

がんばれなかったのも本当だ。

 

 

夢はひとりじゃかなわない

 

 

そんなことを想いながら、

誕生会で応援してくれる人たちを目にしていたら

18歳の誰も応援してくれる人がいなかった

自分が浮かんできて、

たくさんたくさん遠回りをして

50のいま、こうしていて

ああそうか、

わたしは歌手になりたかったわけじゃなくって

あのとき、

鳥肌をたてて見ていたノッコのエネルギーに

いまだ惚れていて、

まだそれに近づこうとがむしゃらに

生きているだけかもしれない、って

そう気づいて

 

アホみたいだけど

 

それに付き合ってくれるみんなへの感謝とか

愛情とかありがたくてたまらなくなって

でも泣かないって決めてたから

絶対泣かなかったけど

 

ひとりぼっちで歩いてきて

ひとりよがりが身に付きすぎて

自分が馬鹿すぎて、今も泣けるけど

 

作品にはなれない人生も

ラフスケッチがイキイキしている人生も

いいも悪いもなくて

もう仕方のない、それが自分で

もうずっとラフ書いてればいんじゃね?

って思った。

 

 

そんなこと思いながら歌った

「maybe tomorrow」だけは

ちょっと魂はいってた…かもしんない。

 

幸せでも、欠けてなくても

歌える歌があるんじゃないだろうか。

あるよね。普通に。

 というか、

幸せになったら表現が終わるって思ってたのかも

とも思い当たって…

つまんなくなるんじゃないかって

満たされて何もしなくなるんじゃないかって

 

だけど、

 

 

でもそうじゃなくて

 

老いても

きっと

伝えられることはあって

衰えていくものがあっても

むしろ

人を幸せにできる

 

欠けていたころの魂の入り方とはまた違った…

なにか

いろんなことへのリスペクトのような

そんなものの存在がきっと

その表現のなかにあるんじゃないかって

あるよね、普通に。

どうしてそれに気付かなかったんだろう。

 

わたしだから、

歌うことはやめないって決めた

 

 

そして

もっと楽しくなっていいと

幸せになっていいのだと

ブレーキをかけていたものを

一つまた外してみることにした

 

 

ラフ書いて

作品作って

ラフをいつも超えられなくても

どっちもやればいいよね

どっちもすごい勢いでやればいつか…

 

それじゃ今までと同じだけどさ

このまんま生きたらすぐ倒れそうだけど

 

それでも

しあわせじゃん

 

 

とりあえず、みんなの意見で決まった

誕生会の日取りの1月4日は

亡き父の誕生日

 

 

父があの世から言ってる気がした。

 

お前はいい加減、気づきなさい。

ずっと愛されているんだよ

ずっと

はじめっから愛されていたんだよ

 

 

そうなのかなあ、お父さん。

きっと、そうなんだろうね。

でもね

どうしてだろう

 

愛されるってずっと怖かったんだよ

 

 

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